春の庭、歩くだけで楽しい。
Fuji Michi
Fuji Michi
藤 道(ふじ みち) 1998年生まれ。ブロガー。
自分大学というサイトを始めました。
少々非常識的なことを言うと、学問をするために自分だけの場所を開くということは、”学校”そして”学び”の一つの在り方だと思います。もちろん正式な手順を踏んで開学するわけではない、いわば口だけ大学なので、自分が主体的に動かなければ意味がありません。
始めたきっかけのひとつとして、二十歳になり、単純労働でお金を稼ぐだけの毎日にトドメを刺そうと思いました。
しかし自分でお金を稼ぐということは、息を吸ってさえいれば達成できるような簡単なことではありません。だからこそ自分が勉強して価値を高め、新たな価値を生み出す準備をする。自分大学はその過程において、私が何をどうやって勉強し、習得し、その結果何をできるようになったかを記録する場所です。
私は興味の幅が広いのでたくさんのことを様々な勉強の方法論を試しながら吸収し、学習レポートとして記事を書き、インターネットのどこかへ吐き出す形になると思います。
今は働いていますが四月の中旬に職場の契約が終わるので、晴れて自由の身になったら本格的に勉強に身を費やしていきます。開設準備中と銘打っているブログもそのタイミングで公開できればなあと。
その新しいブログサイトに関しては中途半端が嫌でかなり長い期間出し惜しみみたいなことをしていますが、自分大学は思いついた瞬間始めました。だから走りながら転び、その上で問題があれば改善していくような雰囲気になるでしょう。
WordPressアカウントを複数持っているため、また新しく作るのが億劫で、一旦Tumblrで始めてみましたが、使いづらさを感じるのでそのうち独自ドメインでサイトを組むかもしれません。
自分大学
とりあえずこんなことを始めましたっていう報告をしてみました。
私はよく思いつきで町の珈琲屋へ入ります。きっかけは大体、美味しい珈琲を飲みたいときと、ひとところにじっとしていたくなったとき。
そんな思いがけなく出会った珈琲屋さんで、肝心のコーヒーが好みの味だと頬がゆるんでしまうのは勿論のこと。さらに私を高揚させるのは、コーヒーを包むカップ&ソーサーに店の品格を感じたときであります。
私は19のほんの短い間、かなり色の濃い喫茶店で働きました。(そのお店はほぼケンカ別れのように辞めてしまったのですが)思い返すとそのお店で学んだことは多かった。
特に器に関しては、たとえば一目で「あ、このカップはロイヤルコペンハーゲンのものだ」などと判別するようになりました。
美味しいコーヒーは舌の上で転がすように味わうことも、店員としても客としてもお店のカップは繊細に扱うべきだということも、そのお店で教わったからこそ私の趣味である珈琲屋探訪はさらに味わい深さを増したのです。
さてさて、閑話休題。
美しい装飾が施されたカップ&ソーサーは、おいしいコーヒーにこそふさわしい。これは、器とはコーヒーのドレスであるのだ、と言い換えることもできるでしょう。
いくら豪華に飾り立てても中身がからっぽではどうしようもないという点では、コーヒーと器の関係にも、ある種の人間性を感じ得ないのです。
高級な器はややもするとお客さまが破損してしまう可能性だってあります。それでも温まった綺麗なカップにコーヒーを注いで提供し続けるお店には、うちの自慢のコーヒーを最大におめかしした状態で飲んでもらいたい、という強い意志と覚悟すら見えてきます。
それこそが冒頭でも述べた「お店の品格」であると、私はいつも思います。
次は一体どんなコーディネートを見られるかしら、と楽しみにしながら、私はまた新しい珈琲屋の扉を開くのでした。
「まだ19歳で、なんでそんなに色んなおいしいものを食べてるの」と、同世代の子と話していると言われる。
親が裕福で美食家だったから19年間おいしいものを食べさせてもらってね、なんてことでは、まるでない。むしろ家は貧しく、外食は稀なことだった。ただ、母が家で作る料理はもちろんおいしい。
なんでだろうと聞かれたとき思いつく限りの答えは、
「おいしいものが好き」。
ただそれに尽きるのだと思う。
周りの子がファッションやコスメにかけるお金を、主に食べることへと費やしてきたのだ。
それは確かなことだ。周りの友人がブランド物のリップを嬉しそうに見せ合う中で私は、デパートコスメなんて一つも持っていないし、私の化粧には型ができてしまっていて、これ以上の発展がない。
けれど食の話になるとそれ食べたことあるよ、どこどこで食べたのが美味しかった、なんて文句が無自覚にすらすら出てくる。
もう一つの理由として、今まで仲良くお付き合いしてきた人々も、みんな揃って食べることが趣味だった。
だから余計に食べることが好きになった。好きな人たちが好きなこと、それを私も好きになった。
今やどんな店へも一人で行ける。
少し背伸びして贅沢なお店へ入ることも時々ある。けどそういったお店は仲のいい誰かと楽しくおしゃべりしながら食べるほうが、より美味しいのだよね。
だからここ最近ずっとほしいと思っているのは、”美味しいものを食べること”への探究心が人並みはずれた同世代の友人。
別にその友人は一人でもいいし、何人かでグループを組んでもいい。
ついでにお洒落も大好きで、背伸びしたお店へ行くときはみんなで最大限めかしこんでいくような関係。それで他愛もない会話をしつつ、ただ美味しいものをいただく。
もうすぐ二十歳になる。私はお酒は嗜む程度にしか飲まないつもりだけど、それでもお酒の楽しみもほんのりと分かち合えたらいいな。
考えてみると最高の友人ではないか!
(我こそは!という方、ぜひお声がけくださいませ。)
話は変わり、最近ショッキングだった出来事は、私の溺愛する「さわやかのげんこつハンバーグ」を貶されたことだ。
「さわやか」というファミリーレストランをご存知だろうか。実はこの店は静岡県内にしか存在しない。しかし静岡県下には31店舗も存在する。
そこの”げんこつハンバーグ”は至極の名品だ。250gの新鮮な国産牛をぎゅぎゅっとげんこつのように、つなぎは一切なしで強くやさしく丸め、中を赤身の状態に焼き上げてくれる。店員さんが目の前で丸い肉塊を半分に分けてくれる。ソースは迷わずオニオンソースで。
ハンバーグにナイフを入れてみるとよくわかるが、本当にさわやかのハンバーグは中身がレアなのである。
外側はほどよくジューシーな食感に焼き上げられ、中の赤身はとろりと口の中で柔らかくほどけてゆく。そして”子ども舌と大人舌の中間にある絶妙な部分”をくすぐるような特製のオニオンソースが、私の舌にとどめを刺す。
「さわやかのげんこつハンバーグ」は、存在するというだけで私を幸せな気分にさせるのだからどうしようもなく小悪魔だ。
そんなさわやかのハンバーグを周囲にこれでもかというほど勧めていたが、ある日友人に、
「さわやか不味かった。普通のハンバーグじゃん、って思った」と言われ、私ははらわたが煮えくりかえるほどの憤りを覚えた。
どこのさわやかも混みすぎていて、何店舗もまわった末に食べた後の感想だったようなので、そこでまず減点されたのではないだろうか。必死に反論を考える。
でも、反論を考える前にわかったことがある。
食の好みは、人それぞれなのだ。
私がおいしくても、それは誰かにとっておいしくないかもしれない。
日本人が海鮮を主としたナマモノを愛することが、多くの外国人にとって普通ではないように。
だからせめてもの願いとして、より多くの時間を一緒に過ごす人は、似た味覚を持っていてほしいなと思う。
お互いに美味しいと感じるものを一緒にゆっくり舌の上にのせ味わいながら、人生の妙なんかを楽しく語り合う。きっとその瞬間にはなんの翳りもなく、私も相手も幸せな気持ちになれるだろう。
そのために、さわやかのハンバーグを愛していることは必須条件だ。
最後に、私の人生の中でもっとも幸福度が高かった食事を三つあげよう。
一、浅草の「釜めし むつみ」の釜めしとあら汁
一、小田原「友栄」の上うな重
一、「炭焼きハンバーグ さわやか」の げんこつハンバーグをオニオンソースで
趣味が合いそうな人、ぜひごはんを食べにいきましょう。
「ふじみち」という名前でSNSを始めたのは私にとって大変な挑戦だった。
大きなブロガーになりたい。
そんな小さい頃からの夢を叶えるために、この名前で、「活動を」というと大げさだけど、ブログとSNSを始めたのだ。
(注:私はあたかも好きな情報を発信しているだけのアカウントに見えるかもしれませんが、正直、フォロワーをたくさん増やしたいという願望は強くあります。)
数年前、美容に凝っていた時期、Twitterで美容のアカウントをやっていた。
フォロワーも順調に増えて、自分の世界観に沿ってつぶやくことがとても楽しかったことを覚えている。
だからそのときの経験から言うと、ただ好きなことをつぶやいているだけ(あまり不本意なフォローバックなどもせず)でも、フォロワーがインフルエンサーを含めて60人を超えたら、そこからはどんどんフォロワーは増え始める。
まあ数年前とは事情が違っているし、これは自分の努力次第としか言いようがないのだが、とにかくふじみちのアカウントはフォロワーが60人になった。中にはフォロワーを数千人抱えるインフルエンサーの方もいらっしゃる。
だからこの時期、フォロワーが一人、一人と減っているのを見ると心が泣いているように感じるほど落ち込んでしまう。ほんの一瞬、ね。
私の発信することが誰かにとって価値のない情報でしかなかったんだな…ごめんなさい、って。きっといつまでも陽の目を見ることはないんじゃないか、と。
「一ヶ月でフォロワーを1000人増やした方法!」
なんていう言葉がパソコンの画面上を踊る中、私はセルフブランディングとかそういうものが壊滅的に下手なんだな、と思った。
それでもほんとうに好きな人にフォローしていただけたり、一年弱で少なからずの収穫はあったかな。
フォローを外されてしまう原因はわかっている。ツイートの内容から「書くことを仕事にしたい人」「ブロガー」の人からのフォローが飛んでくるのだが、そのどれもについて私は真面目に発信しようとしていない。ブロガーになりたいのにブログは製作中という触れ込みで非公開だし、「考えるよりまず動く」という価値観が主流の今の時代では、やはり私のような存在はうだうだしているようにしか見えないのだろう、ディスられたことだってある。
でも「ブロガー志望なのにブログを非公開」にしていたからこそ、よりたくさん自分と向き合えたと思う。他人を気にする気持ちを一度シャットアウトするという意味で。
これまではこんな雑文もブログに書いていたけど、これからはそういった記事はブログには書かない、つまり完全に私の好きなことだけで好きな世界を作り上げると決意できたし、ブログデザインも今できうる限りで綺麗なものを作っているし、ファッション記事を書くためにあらゆる衣服を買い込み、カメラマンさんとアポを取ったりと自由に行動している。
そんなのブログやりながらできるよ、と言われるかもしれないが、やはり一日十時間以上、やりたいこととは全く関係ない仕事をしながら、それをし続けるのは難しいのだ。それはもう体を酷使する仕事の性質上仕方がなくて、今できることは六時間の休み時間を最大限に使うことだけ。
「吾少(わかく)して賤しかりき、故に鄙事に多能なり。」
これはなぜそんな多芸多才なのか。と問われた孔子が、答えたときの言葉だ。
歳若い頃から貧しかったから、生活をするためにいろんな仕事をして、つまらないことまでできるようになったのだよ、と言っている。
綺羅、星のごとく活躍しているブロガーを思い出したりして辛くなったときは、この言葉に支えられている。大好きな言葉。
…
ブログの公開をした少し後に今の職場の契約期間が終わりまして、そこで貯めた資金を元手に、実家東京へ帰ってブログに没頭する予定です。
成功するかしないかなんてわからない、とにかくやってみなければ。
それまでの間、読んでほしくもあり、そうでなくもある文章をここに置いてみようと決めました。特に、私の文に興味があってフォローしてくださった方に、読んでいただきたいと思って。
ほんとうにこんな雑文を書く予定ですから、誰かに届けるというか自分への手紙的な側面が大きい場所になるかな、ここは…。
今日も遅くまでお付き合いありがとうございます。それではおやすみなさい。
ふじみち